本の感想
【禅の教室】
藤田一照
伊藤比呂美 共著
こちらも再読です。
最近、チョプラさんが提唱する瞑想法を渡邊愛子さんの本から抽出して、比較的軽い気持ちで続けおります。良いとか悪いとかそういうのは考えず、まずは言われているように20分やりきってます。
で、前回
「瞑想と坐禅の違い」
についてこの本でハッキリと思い知る事となったのですが、坐禅についてもう少し理解を深めて、今やっている瞑想が坐禅とはどう違うのかを認識したいと思うようになりました。
まず坐禅は苦行ではないという事について。
「(苦しくなってくるのは)自分で自分に枠を一方的に押し付けているからですね。私が頭で坐禅と言われるものを「こんなものだ」と理解して、その理解したものを「体」や「心」に命令してその通りやらせようとしている。坐禅は本来自発的でなくてはならないとわかっているけど、それじゃ本当の意味で自発的じゃないんです。」
「こうあるべきという坐禅が先にあり、その通りできないから苦しむんです。」
「坐禅というのは現状を受け入れるところから始まるものだったのに、僕は短兵急に現状を変えて理想に近づけようとしていたという事です。」
私もこうあるべきという方向に自分を仕向けてコントロールしようとしていました。例えば雑念が沸き起こる。眠ってしまう。それをどうにかなくそうと頭の中で躍起になる。でも、この本にも書いてありますように、その考え方だともっとこう内側にのびのびと広がる世界が見えないんですよね。
「強為と云為」
「テクネーとポイエーシス」
という言葉でこのコントロールしようとすることについて説明しておりました。
何かを意図的に導くのではなく、内側の催しに導かれて自然にやっちゃうこと。ポイエーシス。
を1つの理想として語られておりました。
もう1つ。
「坐禅は運動だ」と。楽に座るという運動をしているというのです。
「坐禅とは体と心をフルに活かして、仏教そのものを実地でやることです。床からの助けも使うし、空気も使うし、環境も全部坐禅の一部になっている。だから縁起の全体、私の関係性全部を使って坐禅をしていると言ってもいい」
「縁起の境界線はないから、それは宇宙大のネットワーク。全部を縁起」
「(だんだんと回を重ねるごとに)自然のままに、体にとって一番のところを探す。より良い坐相にどこまでも肉薄していく。」
「目も肩甲骨と同じで、自然にそう『なる』のを待つわけです。」
ここでも作為による坐禅を対立軸として、どのように取り組むべきかを示しておりました。
最後に雑念について
雑念が湧いてくることを責める必要はないと言っています。コントロールするのではなく、雑念を見つめるというか、雑念が湧いていることを把握する。そんな自分の今、に気づいていけるか。そのようなことが書いてありました。
坐禅はウンチをする行為と同じだとも書きてありました。
ウンチ=頭の中の思考
脳のクレンジング。
脳の浄化作用が坐禅だと。
雑念と上手く付き合う方法を伊藤さんが面白い比喩で答えておりました。
「頭の中にドアを2つ作って、1つのドアを開けるとそこから雑念が一気に頭の中になだれ込み、もう1つのドアから出て行ってもらう。」
つまり、雑念は沸き起こること自体自然で抗いようのないもので、それをどう自覚しどうやり過ごすかが大切なのです。
さてさて、再読により坐禅の理解を深めてきましたが、今取り組んでいる瞑想との違いについてはどうか?
ちょっと答えを出すにはちょっと急ぎすぎかな。共通していることが多いし、あえて違いを出しても理解が複雑になるような気がしました。
とりあえずもう少し静かに瞑想を続けてみようと思います。