boban10ban’s diary

ごく普通の41歳のサラリーマンが、日々のあれこれをつぶやいております。

本の感想

【禅の教室】

藤田一照
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「坐禅と瞑想は違う」
 
あまり深く考えたこともなかったのですが、本を読んでハッとさせられたのはこの一言です。
 
僕は何をしようとしているのか?
僕は何を得たいと思っているのか?
 
よく考えもせず、瞑想だの坐禅だのマインドフルネスだのと、何かにすがろうと盲信していた事に突き当たりました。
 
先の瞑想と坐禅の事、自分なりの定義をつけるなら、「瞑想」はある目的に即して行う技術的な脳開発手法の1つ。「坐禅」は自分自身を嘘偽りなく、飾る言葉もなくただ自分自身を見つめること、自覚すること、そのように解釈しました。
 
仏教について本を読んだからと言って自分流に解説してみせても、浅はかな知識を知ったかぶりで披露するばかりなので割愛します。
 
僕としては今目に見える「この世」と言われる物理的に臨場感のあるこの世界の他に、何かもっと大きな力が働いているような気がしているんです。あえてそれを「別の世界」というべきなのかどうか、それすらはっきりしませんが、その正体が何なのか知りたくて、瞑想や坐禅に答えを求めて傾倒していると言えるかもしれません。
ちょっと道を踏み外したら、薬をやって別世界へぶっ飛んでしまう体験を望んでしまいそうですし、熱を入れ過ぎたら新興宗教のカルトの世界に引き込まれてもおかしくないでしょうね。まぁ今となってはそのどちらもしっくりこないので、やろうとも思いませんが。
 
過去に大きな交通事故を起こしてしまった時、振り返ればいくつもの奇跡が重なってただの自損事故で済み、且つ全くの無傷でそこに立っていられたあの日の事。
意図せず離婚することを自暴自棄になりながら願ったその事がいつの間にやら現実化した事。
いつか元嫁が不倫相手との間に子供を作ってしまう事を想像して、それについてどう対応するかを妄想し考え続けていた日々が、いつの間にやら現実化した事。
 
最近は「意図した事が叶います」的な本が流行っていますが、大きな力のようなものが本当にあるのではないかと疑っています。
 
坐禅とそれが関係あるかどうかわかりませんが、「禅」という切り口から、その僕のボンヤリを紐解いていきたいと感じています。