boban10ban’s diary

ごく普通の41歳のサラリーマンが、日々のあれこれをつぶやいております。

運命ってヤツは。

宇宙の法則とか大いなる存在とか、物理的世界の2次元では説明のつかない存在。何か自分の背後に大きな力があるような気がしている。

 

最近はそんな事をよく考えるわけですが、さてていつ頃から興味を持ち出したんだろうと遡っていくと、小学4年生の時に感じた出来事が思い出されます。

 

学校からの帰り道。家の近くに建っているマンションの前を歩きながら、ふと

「運命って何だろう?」

そんな事を考えていました。

運命の人とか言うけれど、それって誰か出会うべき人が決まっていて、いつかそれが実現するって事だよな。

そのくらいの認識しかない当時でした。

 

で、

「出会うべき人が決まっているなら、他にどんな事が決まっているんだろう?」

そんな疑問を膨らませてみました。

学校の事。

仕事の事。

そういうのも全部「運命」ってヤツで決まっているのかな?

ならば、明日起きる時間も「運命」で決まっているのかな?

ならば今から自分がやろうとしている事も「運命」で決まっているのかな?

 

(ならば今から右手を差し出してみよう)

 

と考えて、そっと右手をポケットから出して見る。

 

これも運命。

 

次は左手。

 

これも運命。

 

ん?

これって自分の意思じゃないのか??

 

手を上げると自分で決めたら手が上がっていったわけで、あらかじめ決められた事とか言われてもねぇ。

 

そこでもう一度考えました。

 

「運命」が何か本のような物で、世界の未来まですべて網羅されているとしたら、僕がとった『右手を上げて、左手を上げて』という行動もすでに決められていたのではないか!?

 

〇〇年〇月〇日に、この人は手を上げる

 

みたいな文章がその本の中に書いてあるんじゃないか!?

 

すると、

もしかしたら、

まさか、

自分の意思というものまで「運命」で決められているのか!?

 

(右手を上げるふりをして、結局上げないみたいなフェイントをかけてみる)

 

えーっと、運命の本によると、

〇〇年〇月〇日  こいつは何を思ったか運命に逆らおうとフェイントしてせる。

 

そこまで決まっているんじゃないか!?

 

恐るべし「運命」。

 

 

夜の電車に乗って窓の外を見ていると、お月様がいつまでも同じところでずーっと追いかけてくる。それを眺めては、いつか月が遅れをとるんじゃないか!?と注意深く飽きずに見ていたのを思い出しました。

 

運命は僕の背後からお月様のようにずーっと僕の行動を見ていて、何をしてても

 

「そうするって決まっていたよ」

 

と声をかけてくる。そんな気がしたものです。

 

でもでも。

 

確かに運命で僕の行動は決められているけど、右手を上げようがあげまいが、結果的には運命で片付けられるかもしれないけど、どっちを選択するかは僕の意思だろ!?

 

つまりは運命ってのは、自分の意思の結果の事を言うだけなんじゃないか?

何もしなくても、それも運命。何かしたってそれも運命。

じゃあ自分がやると決めた事に素直に従ったらそれでいいんだ!それが運命なんだから。

 

ということで、当時の私は自分の意思=運命と捉えていました。

思えばこの解釈によると、運命というヤツは堕落した人間には冷たいものに感じるし、やる気のある人には自尊心を育んでくれるような気がします。

 

つまりは自分の世界の捉え方によって、良いも悪いも決まるってことです。

 

本の感想

【あなたが「宇宙のパワー」を手に入れる瞬間】

ディーパック・チョプラ著

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以前渡邊愛子さんの著書「運の良さは瞑想でつくる」を読みましたが、彼女の瞑想普及活動に至るルーツはこのディーパック・チョプラさんだそうです。

 

題名からは何の話が展開されているのかよくわからないのですが、網羅している範囲は非常に広範なのだとわかりました。

アファメーションの理論や禅、脳科学量子論(私が知っている事はこれくらいしかありませんが)といった私の中で今流行りのトピックをきれいにまとめていると感じました。

今までそれらの理論は別々の本から知識を得ていたので、内容が近い・類似していることについて、私の頭の中はまとまりがなくて漠然とした状態でした。

 

私の勝手な記憶に従うと、鈴木俊隆さんの本では、「わたし」と「世界」は同じなんだよというメッセージをしきりに書かれており、「わたし」と「世界」が「在る」でもあり「無い」でもあるみたいなことも確かあった気がします。そういうことを受け入れながら、ただ座る。それが坐禅だというようなことだったと思います。

こちらは多分量子論の話だと思いますが、世界に私たちが働きかけないとその世界も存在しないという説というか実証があって、宇宙全ては「わたし」の創造でもあるんだと言っています。逆に「わたし」は宇宙とは切り離されたものではなく、宇宙そのものなんだとも言っています。

つまりは渾然一体となったその「宇宙」と「わたし」に意識を向けることができたなら、大いなるエネルギーの恩寵を受けられますよと言っています。

逆に今の我々は、二元論的な解釈と触覚から受ける情報をすべてと考えるように仕向けられていて、宇宙とは切り離された「わたし」がエゴで何かを成そうとしても、その大いなるエネルギーの恩寵を受けられないのだと言います。

 

願望を手放しちゃいなさい。

諦めるわけじゃなく、手放す。

大いなるエネルギーに委ねると表現されていますが、人為的に叶えようとすると、願望はかなわない。むしろ手放す方がエネルギーの応援を受けて願いが叶うと言います。

 

まぁ、こうやって書くと本当に怪しい新興宗教みたいな感じですね。

 

その願いが叶うとかそういうのは、まぁ置いておくとして、老子の「道」の哲学というのでしょうか、それも確か「宇宙」とか「大いなる存在」とかに意思(老子自然法則みたいな表現)があって、それに従うといいと書いていた気がします。

だからこの本を読んで、そのいろんなものが一本の線になってきたような、そんな感覚です。

 

 

 

最後に1つ。

 

なぜ僕らは宇宙そのものなんだという意識を失うようになってしまったのでしょうか?

「わたし」は宇宙と同じ物質でできていて、宇宙の意思というのかそれを表現する場であるとか。

 

では、元々そういうものであったのに、なぜその感覚を僕らは取り戻せないのか?悟りと言われるような特別な体験で、一部の人にしか理解できなくなってしまったのか?

それも宇宙の意思なのか?

 

チョプラさんはこういう考え方の先には、グループを拡散させて平和の輪を広げていきたいと考えておられるようです。渡邊愛子さんは瞑想を通じて健康をテーマにした普及活動をしていきたいと考えておられるようです。

本来なら、誰もがそういう存在なのだから、瞑想や誰かの教えなくても運や幸せを感じていいはずなのに、そうではない。大いなる存在の意思で我々人間という形に宿った魂は、何の意図があって幸せの受け取り方を見失ってしまったのか。

 

それが謎です。

 

 

部下が鬱になりまして。

部署内の女性が鬱病との診断書を出してきました。

 

なんというのか、我が部署は今混乱を極めています。

 

先日の若手社員の退職願い(正式に退職決定)があり、今度は鬱による休業。

若手社員の補充には、他部署から転勤で評価の高い中堅が来ることになったのですが、それに伴い組織の改編など色々ある中で、またもや問題勃発。

 

原因を突き詰めていけば、そりゃ組織の管理者である私の責任ということになるのでしょう。

 

問題。

 

では、私の何がいけないのか?

 

責任逃れはしてないつもりでも、何がいけなくてどうすればよかったのか、さっぱりわかりません。できていない仕事に対しもっと適切な声かけが必要だったのかもしれない。

以前彼女が言っていました。

「表面的にしか評価されていない。」

と。

彼女の本質は何か違うものを求めていて、こちらはそれに気づいてあげられなかったのか。

うーん。

彼女自身は真面目に取り組んでいたのかもしれないけど、影で泣かされていた他の女性社員は数多くいて。仕事を頼んでもやってくれない、自分の仕事じゃないと拒絶される、頼んでも最後までやりきってくれないから、結局自分で後始末をしないといけない。

確かに責任感というくくりではちょっと違うなと思うところがありました。それを冷静に注意してきたこともありました。

彼女なりには、こうだったとか、思い違いをしていたとか、そういう対応を取ってきた理由というのがあって、当時者ではない私が人の話だけを取り上げて彼女を叱責するのもおかしいと思い、公平に話を聞いてきたつもりでおりました。悪く言うと実に上手に責任回避ができる人でした。肝心なシッポが捕まえなれない。管理者としてそういうモヤモヤがあった過去でした。

仕事のスキルが上がってきているということもなかったので、前から問題だったそのボンヤリと問題があると思えた彼女の言動について最近メスを入れ始めた矢先でした。

「それは表面的にしか見てない管理者のあなたの評価が間違っています。」

それを鬱という診断書で突きつけられたような気がします。

 

結果として私が多数の女性社員の意見を尊重した結果、1人の女性の精神的な負担を増やし、彼女の体の変調につながってしまったのでした。

女性の、男性にはよくわからない、グループ行動による1人の排斥行動に加担してしまったのかもしれません。

 

いずれにせよ、彼女が体調を取り戻し復帰できるとは思えません。戻ってきてもこの集団対個人の構図は変わらない以上、彼女はまた闇の中に入ってしまうでしょう。

他人事のように見ておりました鬱ですが、我が身に降ってきて正直ショックです。

W800改めW650カスタム〜第1章〜

とうとうやってきました!

 

待ちに待っていました。

 

時にはカスタムを忘れる時もありました。

 

しかし、

KIDさんの移転も終わり、

とうとうバイクカスタムが始まります。

 

ということで、今日はKIDさんの新しい工場に訪問することとなっていました。

 

先週KIDさんから電話が来て

「お待たせいたしました」

って、W650が届いた話をもらいました。

 

「もしかしたらバイクは届かないかもしれない」

「もしかしたらKIDさんが忘れているかもしれない」

「もしかしたら、KIDさんはいないのかもしれない」

「僕の見たKIDさんはまぼろしかもしれない」

「そもそもバイクカスタムなんて頼んだことないかもしれない」

「そもそもオレって誰だ!?」

などと、届かないバイクを皮切りに無駄なことばかり考えていましたが、ようやく現実に引き戻してもらうことができました!!

 

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「実はなかなかいいやつが無くって時間かかっちゃいました。」

 

と、しばらく探してもらったバイクがこちらの写真。W650ってのは外観はほとんど800と変わらないんですね。キャブもそれに似せたW800の外観と同じでして、いかに650が優秀でそれを踏襲した800が出来上がる苦労を垣間見た気がします。

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うん。やはり綺麗なエンジンだ。

 

今日はKIDさんとカスタムのおさらいです。

 

えーっと、タイヤは・・・

シートは・・・

ハンドルは・・・

 

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で、再び登場の絵。

「とにかく無駄な装飾もなく、シンプルで、それでいてバランスが良くってカッコイイ。それが一番の希望です。」

KIDさん曰く「自分のやりたい方向性もそっちなんでやりがいがありますッ!!」

 

確かに客の僕ですが、なんかKIDさんの創作アイデアが詰まったバイクを作ってもらえるというのが、一緒にコラボしているような感覚です。僕の想像を越えてってカッコイイバイクになることを楽しみにしております。

本の感想

【運の良さは瞑想でつくる】

渡邊愛子著

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ずいぶん前に読んでいたのですが、感想が遅れてしまいました。

 

現状打破

 

それが僕の希望でして、まぁ仕事でもプライベートでもうまくまわってないなぁという日々から早く脱したいのです。

特に最近は「考える時間」が十分に取れていなくて困っています。感覚的にしっくりこない時は自分の深掘りに解決の道があるというのが僕の仮説なんですが、その行為ができていない。

イライラするのは自分の中の何が満たされていないか、しっかりと根っこを捕まえないといけないのですが、表面的な不満に満たされてしまい本質へ辿れない。だからついつい逃げたい辞めたいという感覚で終始してしまい、自分が一体どうなりたいのか全く考えられていないんです。なんか、一本の棒にゴミや垢がこびりついたまま過ごしているというのでしょうか。そのゴミを丁寧に取り除いて本質へ迫る思考を取り戻したい。そのために「瞑想」にすがろうとしています。

 

瞑想にしろ坐禅にしろ、やらないことには何も始まらない。それを数多くの本から知識として得ているのに実践しない僕が悪いんですけど、いい加減言われた通りやり続けてみようと思います。

本の感想

【センスは知識からはじまる】

水野学著

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飛行機に乗る空いた時間に何か読み物をと探して買った1冊です。最近はこの手の本が豊富ですね。1時間くらいで読めて1500円くらいの単行本。新幹線の駅の中にも本屋があって、例えば新大阪は改札に入ってから探せます。

時間つぶしの本と言えばこれまで文庫本というイメージだったのが、最近は単価の高い読み捨てタイプの単行本になってきてます。

 

さてさて、前置きですでに脱線してしまいましたが、

「センス」

僕にとって20歳前後の頃はこの「センス」ってやつにコンプレックスを感じておりました。洋服をカッコよく着こなす友人達。映画や音楽に興じる友人達。お笑いを談じる友人達。芸大生美大生の振る舞い。どれもセンスがないとビシッとしまらないジャンルだと思っていました。

それにひきかえ僕ときたら、雑誌で見た髪型を真似してみても

「おっ?寝グセが直ってないな!」

などと真顔で心配されるし。

金のない僕は古着屋に行くしかすべもなく、そこで当時流行りのチビTなる洋服を買ってみても、どう見てもオカマの人たちのヘソ出しスタイルにしか見えない。

それでも買い直す金もないんだから着るしかないんですよ。オカマのTシャツを。

それ着て学校行って、1人友達もいなくて浮いた存在だった僕。

髪質に合わない長髪スタイルを模索した時は、自分の髪質がくせ毛の剛毛という前知識も知らず、

なぜだ!?

なぜだ!?

なぜだ!?

なぜアイドルみたいに、サラサラっとなびかないのか!?

なぜ髪の毛がまっすぐにならないのか!?

なぜ雨の日は髪の毛がチリチリになってしまうのか!?

そんなオレは一体どこの床屋に行ったら同級生の中でもチヤホヤされるような髪型になるのか!?

まーったくわからないまま、本当に自分自身にうんざりして、雨の日はよく学校を休んでいました。それこそ体当たりで知識を理解した青春時代でした。

 

 

「センスは磨くもんだ」

とはいうものの、どうやって磨いたらいいのかわからない。とにかくその「センス」がいいって人たちの真似をしていたように思います。

 

今でこそそんな突き抜けるほどにトンガったコンプレックスは感じなくなってきましたが、つい「センス」なんて聞くと、当時のセンチな気持ちを思い起こしてしまいます。

 

 

いやはや、前置きに続いてまた脱線してしまいました。

 

今の仕事を10年近くやってきて、著者の言う「センス」の良さをようやく「うんうん!」って言って理解できるようになりました。

著者も言うように一般的にセンスとひとくくりにされる概念は確かに数値に置き換えることが難しい、どこかぼんやりしたものです。

「オマエ、センス悪いな!」

なんて言われたら、人格全否定のような気もするけど、よくよく考えると

「で、いったい何がダメなの?」

って聞いてみたくなる。言った人も

「いやだからさぁー、センスよ。センス。わかる?」

なんて言いながら、当の本人も具体的にわかってない。

 

そんな数値化できない事象の良し悪しを判断し、最適化する能力。

 

それが「センス」だと定義されています。

「最適化」という言葉に僕はヒントがあると思っていて、それって絶対唯一の何かを指してはいないんです。

数ある中から最もらしいもの。

それが最適化と僕は捉えています。だから時代が違えば最もらしいものも違うし、明日になってもまた違うかもしれません。株や為替が動くように、その時のBESTにとらわれないことです。

で、そのBESTがわかるならその人はそれだけの判断が下せる知識を有しているということなんです。それが著者の言う

「知識からはじまる」

ってことなのだと思います。

自分にとって今日の晩御飯に一番ふさわしい物を食べようという時、間違いなく私自身が一番センスのいい判断ができるでしょう。それは私の情報を確実に捉え、嗜好や最近の食事の傾向を理解し、最も相応しい食事を選ぶだけの知識を持っているのです。足りないとしたらあとはレパートリーくらいでしょうかね。それも今の時代インターネットで検索できるんだから、調べられるよね。

 

っていう具合に、向かうべき仕事についても同様に知識の集積からやるべき方向性が見えてくる。そのようなことを書いていたと僕は解釈しました。

 

で。

 

僕は、ここまで書いて思いました。

 

その「知識の集積」すらしない人がどんだけいることか。同じ仕事をしていても理解の早い人と遅い人、遅いというか理解しない人。電源がオフになっている人がたくさんいます。

「調べろ」

って言ってもやらない人。

 

意図的に心をそうやって閉ざしているならまだ理解できるんですけどね。

 

僕はといえば、これを読んで早速昨日から右脳開発しようと決めました。果たして続くのでしょうかね。

 

ではでは。

キックボクシングの試合を初観戦

今日は待ちに待った休みの日であります。

また無駄に15連勤とかしちゃって。

で、その間ほとんど肉体労働してて。

で、栄養補給にプロテイン飲み始めてて。

いつの間にか仕事を筋トレにすり替えておりました。

 

そんな筋トレも何のためにしているかといえば、キックボクシングのためなんです。

 

そのキックボクシング。

 

今日は福岡で試合があるというので、早くからチケットを買って見に行ける事を楽しみにしておりました。

 

RISE WEST

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何せ人生初のキックボクシング観戦という事です。昨年タイに行った時に、ムエタイの試合を見ようと会場を探し回ったけど見つからず、結局断念して帰ってきた過去も加味したならば、長いこと「お預け」状態でした。

 

午前中開始のアマチュアの部では、初めて試合に参加される方々や、ある程度の経験者までいろんな試合を見させてもらいました。

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「あと4年以内にこの試合に出る」

 

それが僕の密かな目標なんです。4年といえばその年に44歳になっているわけですが、離れて暮らす我が息子も小学校6年生になっております。彼は離婚した母親と再婚相手の元で暮らしておりますが、彼はテコンドーをやっているそうです。とは言え一度も練習を見に行ったことはありません。どの程度のものか知りませんが、毎月の子供との面会よりもそのテコンドーの練習が優先させるという熱の入れようです。(母親がね)

 

そんな彼が、

もし、

小学校6年生になるまで続けていられたなら、

そん時は親子で勝負したろうと思っています。

男同士の真剣勝負です。

異種格闘技戦ですけどね。

 

いや、ほんで圧倒的な勝利を手にしたいので、試合に出れるくらいのレベルには達しておきたい。欲を言えば勝ちの経験をしておきたい。

44歳で子供にのされるようではあかんと思います。

 

 

さて、話はRISEに戻ります。

後半のプロ選手の部はあっという間の3時間でした。

「12試合とか黙って見てられるのか!?」

と初観戦の僕は、最初は途中で飽きるような予感がしていましたが、いやいや、全くそんなことはございませんでした。

 

そりゃ、すごい迫力です!

 

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この殴り合いの戦いってヤツは、紀元前から興行として人々を魅了してきた競技なんですよね。歴史は相当古いですね。

単純明快。

強い奴が勝つ。

ただそれだけ。

なんか不思議な光景でした。

 

練習の量を増やそうと心に決めた今日でした。